消滅の危機にあるチベット牧畜文化語彙に関するシソーラス辞書の作製

代表

山口 哲由(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科・特定助教)

共同研究員

岩田 啓介(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所・学振特別研究員)、南 太加(青海民族大学民社院・講師)、別所 祐介(駒沢大学総合教育研究部文化学部門・准教授)、星 泉(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所・教授)、柳澤 雅之(京都大学東南アジア地域研究研究所・准教授)、山口 哲由(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科・特定助教)

期間

2019年4月~2020年3月

目的

チベットやモンゴルなどの中国西部の乾燥地では,衣食住を家畜に依存する生活スタイルである牧畜が伝統的に営まれてきた。しかし,近年は牧畜が環境荒廃の一因とみなされるようになり,牧畜民の都市移住や他の生業への転職を推奨する政策が進められ,牧畜活動は衰退している。
 伝統的な牧畜民は,大型の設備などを用いずに簡素な道具だけで家畜を飼養し,そこから得られる乳や肉,毛などの動物資源を利用することで安定した生存基盤を築いてきたとされる。それゆえに牧畜民は,地域の地形や天候などに関する知識,体色や角の形状に基づいて家畜を分類する手法,生乳を様々な乳製品へと加工する方法などを培ってきた。これらの知識も,上述したような牧畜の衰退に伴って急速に失われつつある。
 牧畜民が培ってきた知識は,地域における人と自然との関わりの歴史を反映した文化遺産であり,その表現型である牧畜文化語彙を記録することの重要性は極めた高い。それゆえに本研究の目的は,中国西部の青海省黄南チベット族自治州で現地調査をおこなって牧畜民が培ってきた牧畜文化語彙を収集し,それに基づいてシソーラス辞書を作成・公開することである。

研究実績状況

[2019年度]
本研究に向けて,参加者らは2015年から継続的な現地調査を実施し,3000語以上の牧畜文化語彙を収集してきたが,本年度は,それらの調査に基づくパイロット版チベット牧畜文化語彙辞典をパリで7月に開催された国際チベット学会で公表するとともに,そこで得られた意見や討論内容を踏まえて,シソーラスとして編纂する作業を進めた。8月には山口・別所・岩田が中国青海省・黄南チベット族自治州などで現地調査を実施し,補足的な語彙収集をおこなった。これにより,全体の単語数をのべ4800以上に増やすことができた。9月からは毎週一回のスカイプ会議を実施し,継続的に編纂を進めることにより,2020年1月にはシソーラスとして完成するに至った。2020年2月には細かな編集作業を進め,3月に東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所から全28章からなる『チベット牧畜文化辞典(チベット語・日本語)』を出版した。

研究成果の概要

[2019年度]
牧畜文化語彙は,牧畜という生業に密接に関わる語句の集まりである。日常的に牧畜に関わっている人にとってその意味は自明であるが,牧畜になじみのない人にとってはその意味を正確に把握することは非常に難しい。我々は当初,チベット語表記の順番に基づく牧畜文化語彙辞典の編纂をおこなってきたが,この場合,語彙はその意味の類似性や相互の関係性を無視して配列されることになり,語句の正確な意味を読み取ることはさらに難しくなる。それゆえに,関連する単語や相互の関連性に基づいて牧畜文化語彙を配列することがより分かりやすく牧畜文化を伝えることに繋がると考え,シソーラスとして編纂を進めてきた。
ただし,牧畜文化を体系的に整理して記述する手法は十分には確立されていない。そこでマードックら(1988)が編集した『文化項目分類』や牧畜文化に関する先行研究を参照しながら,チベットの牧畜を体系的に記述するための文化要素を整理し,「搾乳と乳加工」や「屠畜・解体」,「服飾文化」,「宗教的行為」など28の大項目を設定した。これらの大項目の下位には,それぞれの内容を具体的に示す中項目と小項目が設定されており,これらの文化要素の体系に基づいて4800以上の語句を整理することで,牧畜文化語彙に関するシソーラスとしての編纂を進めた。このシソーラスは2020年3月には東京外国語大学から『チベット牧畜文化辞典(チベット語・日本語)』として出版された。

公表実績

[2019年度]
15th International Association for Tibetan Studies Seminar 2019(In National Institute for Asian Languages and Civilizations, Paris, France)において,共同研究員の星と別所がセッション27“Outcomes and Prospects of a Multimedia Dictionary on Tibetan Pastoral Culture”を主催し,チベット牧畜文化辞典の概要やその意義に関して星・別所・山口・岩田・ナムタルジャが発表をおこなった。

星泉・海老原志穂・南太加・別所裕介編,2020,『チベット牧畜文化辞典(チベット語・日本語)』,東京:東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所,ISBN:978-4-86337-323-5。

研究成果公表計画, 今後の展開等

[2019年度]
シソーラス編纂過程で得られたチベット牧畜文化を体系的に整理する手法を用いながら,対象範囲を全チベットに拡大して地域間の牧畜文化の比較研究を目指しており,本研究の共同研究員が主要メンバーとして参加する2020年度アジア ・ アフリカ言語文化研究所共同利用・共同研究課題研究課題「チベット・ヒマラヤ牧畜文化論の構築―民俗語彙の体系的比較にもとづいて―」が採択されている。
また,本シソーラス編纂過程で得られたチベットにおける牧畜文化語彙に関する知識を項目ごとに整理し,分かりやすい文体で説明した記事を下記のアドレスにて「チベット牧畜文化ポータル」として公開を開始した。

*「チベット牧畜文化ポータル」(https://nomadic.aa-ken.jp/
 

 

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